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東京地方裁判所 昭和40年(わ)612号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実

本件公訴事実の要旨は、

被告人は、昭和四〇年七月四日施行の参議院議員選挙に際し東京地方区から立候補した野坂参三の選挙運動者であるが、同人に投票を得させる目的で、他二名と共謀のうえ、同年六月二二日、いずれも同選挙区の選挙人である東京都渋谷区千駄ケ谷二丁目三四番三井辰造方(面接者同人)、同所二八番鈴木巴方(面接者鈴木波子)、同所三四番深谷定吉方(面接者宮沢照代)、同所同番但木美代方(面接者但木和子)を戸々に訪問し、同人らに対し、右野坂に投票するよう依頼し、もつて戸別訪問をしたものであるということにある。

第二弁護人の主張

弁護人の主張は次のとおりである。

一公訴権濫用の主張

現行憲法下における弾劾主義、公判中心主義の刑事裁判手続のもとでは、検察官の行なう起訴、不起訴処分も検察官の専権処分ではなく、一個の当事者的行政処分であると解すべきであり、しかも検察官が国家の機関として公訴を提起することは、時として被告人に致命的打撃すら与える重大な処分であることに鑑みれば、右公訴提起の権能の恣意的行使は許されず、その適否は刑事裁判手続内において裁判所の審査に服するものと解するのが相当である。

ところで、本件公訴事実は被告人が四戸の戸別訪問をなしたというものであるところ、仮にそのような事実があつたとしても、公職選挙法違反事件中戸別訪問罪についての従前の処理状況等に照らせば、本件はとうてい起訴基準に該当しない極めて軽微な事案であるにもかかわらず、検察官は、本件参議院議員選挙が政府、自民党において日本共産党の躍進に危機意識を抱いていたさなかに施行されるものであつたことから、その進出をはばむため、日本共産党の傘下にあると目していた全日本民主医療機関連合会(以下民医連という。)所属の代表的、象徴的病院たる代々木病院の副院長兼外科医長である被告人に対する警備警察の警備情報収集活動の一環として本件を立件し、さらに右目的ならびに民医連および被告人らの民主的医療活動を阻害する目的から本件起訴に出たものである。

したがつて本件起訴は憲法一四条、三一条、刑訴法一条に違反した公訴権の濫用であつて無効であるから、刑訴法三三八条により公訴棄却の判決をなすべきである。

二戸別訪問不成立の主張

被告人は、本件当日の昭和四〇年六月二二日正午ころ、被告人に虫垂炎の手術を受けて四日前に代々木病院を退院した北原いち子から腹痛と流産の必配を訴える往診依頼の電話があつたため、同病院の診療業務を終えた後、午後四時前後に看護婦の斉藤雅子、野間園子とともに同病院を出たが、かねて民医連に所属する医師として過去に診療した患者達にその後の健康状態などを尋ねるようつとめていたところから、同日もその趣旨で右往診の機会を利用して、かつて被告人が大きな手術をしたことのある三井辰造方、本人およびその妹の虫垂炎の手術をしたことのある宮沢照代方、乳癌ノイローゼの中断患者である但木美代方をそれぞれ訪れ、いずれも数分で退出し、その後北原いち子方に至つて診察を終え、帰途リウマチの患者であつた鈴木波子方、および先に本人不在中であつた但木美代方をそれぞれ訪れたうえ、同病院に帰つたものである。

以上のとおり、本件公訴事実記載の各訪問先への被告人の訪問は、いずれも民医連の医師としての医療活動の一環であつて、なんら投票依頼の目的に出たものではなく投票依頼行為も行なつていないから、被告人は無罪である。

三憲法違反の主張

公職選挙法一三八条一項は、具体的害悪の如何を問わずすべての戸別訪問を無差別に禁止し、憲法の基盤たる民主主義そのものの中核を構成する参政権的自由にかかわる表現の自由を実質的根拠もなく制限するものであるから、憲法の基本的原理である国民主権および基本的人権保障に違反し、無効である。

第三当裁判所の判断

一被告人の経歴、代々木病院の沿革、本件参議院議員選挙について

1被告人の経歴および代々木病院の沿革について

証人佐藤猛夫(以下佐藤証言という。)ならびに被告人(以下被告人供述という。)の当公判廷における各供述によれば、被告人は昭和一九年九月日本大学専門部医科を卒業後、東京都内を主とし、その他兵庫県、神奈川県内を含む数ケ所の病院に医師として勤務した後、昭和二七年三月からは財団法人代々木診療所に勤務するようになり、同年九月同診療所が財団法人代々木病院となつて以来今日まで、同病院において専務理事兼副院長兼外科医長の地位にあることが認められる。

また前掲各証拠および当裁判所の検証調書を総合すれば、財団法人代々木病院は、当初昭和二一年一〇月、東京都渋谷区千駄ケ谷一丁目三一番地に代々木診療所として設立され、同二四年財団法人となり、同二七年九月からは施設の整備充実に伴い財団法人代々木病院と改称し、同四〇年六月当時においては医師一〇数名、看護婦四〇数名、ベッド数一二〇余を有していたこと、同二八年六月「働く人々の立場に立つて親切で良い医療をする」ことを趣旨とし、勤労者のための高度な臨床医療活動と社会医学的活動(すなわち、疾病の社会的原因を除去するための諸活動および日常的に大衆に接していく中で疾病の予防や大衆の啓蒙等をはかる幅広い医療活動)の推進を目的として、民医連が全国約二〇〇の各種医療機関により組織されて発足するや、財団法人代々木病院は当初からこれに加わり、病院長佐藤猛夫が右発足当時東京地区会長に就任し、ついで同三二年から今日まで民医連副会長を勤めているほか、副院長の被告人を含め同病院を挙げて右民医連の趣旨、目的に則つた医療活動を積極的に推進しているものであることがそれぞれ認められる。

2本件参議院議員選挙について

検察官関野昭治作成の「捜査関係事項照会書」と題する書面謄本、東京都選挙管理委員会委員長染野愛作成の「捜査関係事項照会について」と題する書面、被告人供述によれば、参議院議員通常選挙が昭和四〇年六月一〇日に公示のうえ、翌七月四日に施行されたこと、野坂参三が右公示当日東京地方区より日本共産党公認として立候補したこと、ならびに被告人はそのころ右立候補を知つておりかつ同候補を支持していたことがそれぞれ認められ、さらに東京都渋谷区選挙管理委員会委員長堺栄伍作成の「捜査関係事項照会書(回答)」と題する書面抄本、ならびに第二八回公判調書中の証人三井辰造の、第二九回公判調書中の証人鈴木波子の、第三〇回公判調書中の証人宮沢照代の各供述部分によれば、そのころ東京都渋谷区千駄ケ谷に居住していた三井辰造、宮沢照代、但木美代、鈴木波子は、いずれも右選挙につき選挙権を有していたことが認められる。

二公訴権濫用の主張について

1はじめに

刑訴法二四七条は、公訴は検察官が行うと定め、公訴提起の権能を検察官に独占させているが、その理由とするところは、同法二四八条所定の起訴便宜主義と相まつて、公訴権の行使を検察官一体の原則の下にある検察官の裁量にゆだね、全体的統一的処理基準に基づく適正公平な処理を期待したものであり、したがつて検察官の起訴、不起訴の裁量処分が十分に尊重されるべきことは当然である。ところで、法は検察官による権能の行使が恣意に流れることをおそれ、その抑制手段として、起訴を相当とする事案についてこれをしなかつた場合については、検察官審査制度、準起訴手続制度(刑訴法二六二条以下)を設けているが、反面、起訴すべきでない事案であるのにかかわらずこれを起訴した場合の救済ないし抑制措置については、何らの規定も設けていない。しかしながら、起訴独占主義、起訴便宜主義の前記法意に鑑みるとき、憲法の平等の原則に反し刑事裁判手続を政治的目的に利用すべく、罪質、態様、状情等からみて明らかに起訴猶予を相当とすべき事案を起訴した場合の如く、検察官の起訴処分が右法意に反し裁量権の範囲を著しく逸脱し違法の程度にまで達すれば、これを放置することなく司法審査の対象とし、当該公訴の提起によつて開始された訴訟手続内においてその是正が図られるべきであり、起訴の違法であることが適正な訴訟手続に従つて立証されるならば、これに相応する終局裁判を行なうのは裁判所の権限でもあり、また責務でもあるといわなければならない。

2当裁判所の認定した事実

(一) 本件事案の軽微性に関連する事項について

(1) 法務省発行の昭和三七年版(弁護人請求の書証、証拠物中番号57―以下単に弁何号とのみ表示する。)および同四一年版(弁149)の各犯罪白書写によれば、昭和三五年一一月施行の衆議院議員総選挙の際戸別訪問罪で検挙された者のうち、略式請求された者35.1%に対し、公判請求された者は1.9%にすぎなかつたこと、昭和四〇年七月施行の参議院議員通常選挙(本件選挙)に際し同罪で検挙された者のうち、略式請求された者57.9%に対し、公判請求された者は3.7%にすぎなかつたことが認められる。

(2) 広中俊雄著「日本の警察」写(弁29)によれば、昭和二七年一〇月施行の衆議院議員総選挙にかかわる当時の外務大臣岡崎勝男に対する公職選挙法違反(戸別訪問)被疑事件について、昭和二八年二月二八日、横浜地方検察庁が、「七軒については明らかに選挙運動と認められるが、他の当選候補者の同種事案に比べて数が少いものと認められる。」との理由で起訴猶予処分をなした旨公表したことが認められる。

(3) 昭和四〇年一〇月二一日付朝日新聞夕刊写(弁11の63)によれば、昭和四〇年七月施行の参議院議員通常選挙に際し、自民党公認候補小林章派の被検挙者中、戸別訪問罪により検挙された八七人のうち、略式請求された者二三人、公判請求された者わずか一人にすぎなかつたことが認められる。

(4) 昭和四二年二月九日付朝日新聞夕刊写(弁15)、同年三月三一日付同新聞朝刊写(弁17)によれば、千葉県一区選出の衆議院議員始関伊平が、同年一月施行の衆議院議員総選挙に立候補していた同月一四日ころ、千葉県庁内を挨拶回りし公職選挙法違反(戸別訪問)容疑で検挙されたが、千葉地方検察庁により、「選挙の目的で回つたという点がはつきりしない。」などの理由で不起訴にされた旨報道されたことが認められる。

(5) 捜査研究昭和三五年九月号に掲載された当時の法務省刑事局総務課検事伊藤栄樹の「戸別訪問」と題する論文写(弁56)によれば、同論文には「かりに一、二戸程度の戸別訪問を検挙するようなことがあれば、警察(軽率の誤りであろう。)のそしりを免れないであろう。もとより情状いかんによることではあろうが、少なくとも一〇戸以上位について証拠が明確に収集できなければ、起訴すべき事案とはいえない場合が多かろう。」との論述がなされていることが認められる。

(6) 坪甫、一之瀬真智子に対する東京地方裁判所、東京高等裁判所の、谷上美茅子に対する東京地方裁判所東京高等裁判所、最高裁判所の、阿部仁に対する東京地方裁判所八王子支部の各判決謄本によれば、いずれも日本共産党候補者に関するものではあるが、四戸ないし七戸の戸別訪問について公訴が提起されて実体判決がなされ、そのうち坪甫、一之瀬真智子に対する事案では四戸の戸別訪問について一、二審の、また谷上美茅子に対する事案では六戸の戸別訪問につい一、二、三審を通じての各有罪の判断が示されていることが認められる。

(二) 検察官の意図に関連する事項について

(1) 警備警察の対象と本件捜査の端緒について

第四八、四九回公判調書中の証人石堂宰の供述部分および同証人の当公判廷における供述(以下これらを石堂証言という。)、第四三、四五ないし四七回公判調書中の証人梅沢福雄の供述部分および同証人の当公判廷における供述(以下これらを梅沢証言という。)、佐藤証言、当裁判所の検証調書、昭和四三年一二月一八日第六〇回国会衆議院地方行政委員会議録第二号写、警備警察研究会編「警備警察全書」写(弁153)、被告人供述を総合すれば、本件当時警視庁原宿警察署では、同署管内の日本共産党本部を警備警察の対象としてとらえ、民医連に属する代々木病院についてもその系統に属するものとみてこれを警備対象とし、情報収集活動を行なつていたふしも窺われ、また本件捜査の端緒も、同署公安係巡査梅沢福雄が、当時本件参議院議員選挙のため同署に設けられた選挙違反取締本部の一員として管内を内偵捜査中、たまたまかねて公安係の警備対象とされていた代々木病院の副院長たる被告人が女性二名を同行して同病院近くの堀部鉱業所に入るのを目撃して同人らを追尾し、同人らが同所から徒歩約一二分の距離を隔てた三井辰造方に至り被告人が同人宅に入つたのを見るや、ただちに同署公安係長で同じく前記選挙違反取締本部に属していた石堂宰警部補に対し、代々木病院中田医師と女性二名で戸別訪問をしているらしいと電話連絡したことに始まり、以後現場に急行した右石堂係長他三名(いずれも公安係でうち二名は前記取締本部に属する。)の警察官を含めて、被告人らに対する尾行や訪問先に対する聞き込み等の捜査が行なわれたという経緯であることが認められる。

(2) 被告人の社会的活動について

被告人の経歴および代々木病院の沿革については前記認定のとおりであるほか、新日本医師協会等共編「新しい医師」号外写(弁43)、「故樺美智子さんの剖検所見に就いて」と題する書面写(弁44)、朝日ジャーナル二巻三四号写(弁47)、「故丸山良夫氏の剖検所見に就いて」と題する書面写(弁49)、被告人作成の意見書写(弁50)、被告人供述によれば、被告人は腹部外科の専門医として法医学会、外科学会ほか多数の学会に所属し、いわゆるメーデー事件の際死亡した高橋正夫の死体の検視に立会い背後よりの射殺説を主張しその所見を発表したのをはじめとして、いわゆる保安反対闘争の際国会付近で死亡した樺美智子の死因についての所見、いわゆる帝銀事件に使用された毒物についての所見等の如く、いわゆる権力犯罪と称される事件について、しばしば国側の意見と異なる法医学的意見を提出して対立する等、幅広い社会的活動を続けてきたことが認められる。

(3) 本件後の状況について

準抗告決定書写(弁54)、被告人供述によれば、被告人は本件後の昭和四〇年六月三〇日ころ、当時の警視庁原宿警察署長らを、被告人の往診先につき取調に藉口して聞き込みを行い被告人の外科医としての医療活動を妨害したとして、威力業務妨害等の罪で告訴したことが認められる。

(4) 本件の処理状況等について

第四〇、四一回公判調書中の証人相沢重一の供述部分(以下相沢証言という。)によれば、本件を起訴した検察官相沢重一は、昭和四〇年七月二七日ころ、警視庁原宿警察署から本件の送致を受けるや、司法警察員の捜査段階における各被訪問者の供述調書を含む一件送致記録を検討したうえ、同月三〇日に被訪問者たる宮沢照代、鈴木波子を、但木和子、同年八月二日に同じく三井辰造を、ついで同月一一日但木和子の母但木美代をいずれも同署において取調べ、なおその間現認警察官等から事情を聴収するなどしたほか、被告人から提出されていた告訴関係記録を通じて被告人側の主張を了知したこと、また同検察官は、被告人に対し同月五日午後に任意出頭するよう葉書で呼出しをしたところ、同日午前に至り被告人側から手術のため出頭できない旨電話連絡があつたので、同日更に同月一〇日に任意出頭するよう呼出し通知を出したが、同月九日被告人から不出頭の電話連絡を受け、さらに同月一〇日電話で被告人に対し同月一七日に任意出頭するよう伝えるとともに都合の良い日を連絡されたい旨申入れたところ、被告人は、「都合がつかないから出るとも出ないともいえない。出ても黙秘だし署名しない。」旨答え、最後に「忙しくて出られないし、一七日の出頭には応じられない。」旨明言したこと、これよりさき被告人は司法警察員の取調段階においても、同年七月六日からの数回にわたる任意出頭の呼出にいずれも応ぜず、同月二五日に出頭したが黙秘であつたこと、以上の捜査経過を経て、同検察官は、本件各訪問先に対する戸別訪問罪の嫌疑は十分で公訴維持に足りる証拠も整つたものと考え、さらに被告人においてもはや検察官の出頭要求に応じる可能性はないものと見込み、被告人が昭和三四年ころ公職選挙法違反被疑事件(文書違反)で取調を受け起訴猶予処分となつた前歴のあることをも合わせ考え、事案悪質と判断し、なお被告人の以上のような態度から略式手続によることについての同意は得られないものとみて、同年八月一二日本件公訴を提起し公判請求をしたことが認められる。

3当裁判所の判断

(一) 本件事案の軽微性に関して

右2において当裁判所の認定した事実のうち(一)(1)の事実によれば、昭和三五年の衆議院議員総選挙、および昭和四〇年の本件参議院議員通常選挙に関し、戸別訪問罪で検挙された者の公判請求率が極めて低いことは明らかであるが、他面略式請求を含めた起訴率は、右総選挙で三七%、本件選挙で61.6%にのぼることが認められ、起訴率を見る限りにおいては、検察官が戸別訪問罪を必ずしも軽微な犯罪として扱つているものとは認められず、公判請求率の低さは、同罪の罪質および態様に照らし、略式請求による公民権停止を伴う罰金求刑で十分処理できる事案が多く、公判請求までの必要性を認めないとの検察官の方針、ならびに略式請求同意率の高さによるものと推認されるところ、右認定の(二)(3)、(4)事実によれば、被告人は本件起訴時点においては無実を主張して逆に警察側を告訴し、検察官の捜査にも応ずることを拒否する姿勢を示していたのであつて、検察官において略式請求の同意を得られないものと判断してもやむを得ない客観的状況が存したのであるから、結局戸別訪問罪の公判請求率の低さから、ただちに本件が事案軽微であるにもかかわらず不当に公判請求されたものと疑うことはできない。

つぎに右認定の(一)(2)の岡崎勝男に関する戸別訪問の事案は、本件の約一一年前である昭和二九年の衆議院議員総選挙の際のもので、本件当時の戸別訪問罪の起訴基準の判断資料として適当でないうえ、右に認定した以上にはその態様、情状等が不明で、本件との対比事案としても相当でなく、右認定の(一)(3)の小林章派の戸別訪問事件についても、全証拠によつてもその態様、情状等が明らかではないから、本件との対比は困難というほかなく、また右認定の(一)(4)の始関伊平関係の戸別訪問事件についても、検察官において嫌疑十分な事案と判断していたかどうかの点で疑問があり、これまた本件と対比するのに適切な事案ということはできない。

さらに右認定の(一)(5)の伊藤検事の論述は、あくまで昭和三五年ころにおける一検察官の意見にとどまるものであつて、もとより右論述からただちに検察庁全体としての戸別訪問罪の検挙ないし起訴基準を断ずることができないのは当然である。なお右論述自体も情状により具体的取扱いに差異を生ずべきことを付言しており、本件につき検察官は被告人には右(二)(4)に認定したような諸情状が存するものと判断したのであるから、右論述の趣旨からしても、ただちに本件起訴の不当性を窺うことはできない。

なおまた、右認定の(一)(6)に示した如く、いずれも日本共産党候補者の選挙に関するものではあるが、四戸ないし七戸の戸別訪問により起訴されて実体裁判を受け、さらには二審ないし三審を通じて本件同旨の公訴権濫用の主張が排斥され有罪とされた判決例も現に存在するのであり、この点に照らしても、本件起訴が四戸のみの戸別訪問であることをもつてたやすく異例不当なものと断ずることは相当でないというべきである。

(二) 検察官の意図に関して

さきに認定したところによれば、被告人は、当時警備警察の対象とされていた民医連傘下の代々木病院に勤務し、長期にわたつて指導的地位にあり、しかも従来いわゆる権力犯罪と称される事件にまつわる法医学上の諸問題につきしばしば国側の見解と対立する意見を出すなどしてきたことが認められるが、そのことをもつてただちに、本件捜査ないし起訴手続が、弁護人主張の如く、日本共産党、民医連、代々木病院ないし被告人の政治的、社会的諸活動ないし医療活動を抑圧し、あるいは被告人を不当に差別する意図目的をもつて行なわれたものとすることは困難であり、さらに本件捜査は、単に被告人が女性二名を同行して堀部鉱業所に入つたとの事実から、これを目撃した前記梅沢巡査がただちに戸別訪問の疑いがあるとして尾行を開始したのが端緒であり、ついで被告人が三井辰造方に立ち寄るや、同巡査の連絡により石堂宰警部補他三名の警察官が応援にかけつけ捜査が続けられるに至つたもので、このような捜査過程をみれば、被告人が前記のような立場にあつたため、一般通常人の場合であれば、未だ戸別訪問の嫌疑を認めるに足りないような時点から、いちはやく右の尾行捜査が開始されたのではないかとの疑問の余地もないではないが、その後における警察の捜査活動全般を通してみても被告人を不当に差別する意図目的があつたとまでは窺われず、他方検察官が本件公訴を起提し公判を請求するに至つた根拠は、検察官自ら重ねて各被訪問者の取調べを中心として捜査を遂げた結果、その段階においては戸別訪問の嫌疑は十分であり、被告人の前歴や捜査に対する態度等前示諸般の情状を勘案した結果であると認められ、この点からも本件捜査ないし起訴手続が前記のような不当な意図目的をもつて行なわれたものということはできず、なお弁護人が戸別訪問以外の罪種ないし犯罪類型にかかる事案について公訴権の積極的ないし消極的濫用の諸事例として縷々主張し列挙するところも、これをもつてただちに本件起訴に右のような不当な意図目的が存在したことを裏づけるに足りるものとは認められない。

(三) 結論

結局弁護人の全主張立証を通じてみても、本件が明らかに起訴猶予処分を相当とする事案であるのにかかわらず、検察官が政治的意図目的からあえて公訴を提起し、被告人に対し不当に差別的取扱をしたものであるとする疑いの存在を認めるには未だ不十分であり、その他全証拠によつても本件公訴提起手続を違法とするまでの事由は認められないから、弁護人の公訴権濫用の主張は採用できない。

三戸別訪問罪の成否について

1当裁判所の認定した事実

(一) 北原いち子方への往診の事実について

弁護人は、前記のとおり、被告人は、本件当日、さきに自ら虫垂炎の手術をした北原いち子方から代々木病院内の被告人のもとに往診依頼があつたので、これに応じて同女方へ往診に赴き、その往復の途次、本件公訴事実記載の各被訪問者宅に立ち寄つたものである旨主張するところ、検察官は、被告人が北原いち子の虫垂炎の手術を担当した事実も、本件当日同女方から往診依頼を受けて往診に赴いた事実もいずれも存在しないと主張するので、まずこの点について判断する。

証人北原いち子の当公判廷における供述(以下北原証言という。)、代々木病院の(カ)六一四外科診療録写(弁83、以下北原いち子関係カルテという。)、被告人供述を総合すれば、北原いち子は、昭和四〇年六月九日代々木病院で虫垂炎と診断され、同月一一日同病院に入院して手術を受けたうえ、同月一八日退院したこと、その当時同病院の外科には外科医長の被告人と小石沢某および女医である高草木某の三名の医師がいたが、小石沢医師は本来産婦人科専門で外科に移つて二年に満たず、高草木女医は同三九年に大学を卒業し、一年間のインターンを経て同四〇年春同病院に来たばかりであり、当時手術の際には被告人が執刀し、同女医はこれを補助する関係にあつたこと、北原いち子の右手術にあたつては、手術当日同女医が血液像検査を行ない、被告人と同女医が手術に立会つたこと、そのころ北原いち子は妊娠五ケ月の身であつたため、被告人は右手術の際これに伴う流産を防止するために高単位の黄体ホルモンを投与する処置をしたうえ、自ら執刀したことがそれぞれ認められる。

つぎに前掲各証拠を総合すれば、北原いち子は前記認定のとおり、前同月九日より一八日までの間代々木病院外科で診療を受けたほか、同月二一日にも同外科で手術に伴うガーゼ交換を受けており、同女方では被告人が同外科の医長で同女の右診療に関与していることを熟知していたこと、本件当日の同月二二日朝同女は下剤を服用したため腹痛を覚え、流産を心配した同女の夫が同日昼ころ同病院の被告人のもとに往診依頼の電話をかけ、これを同病院の遠山看護婦が受けたこと、その旨連絡を受けた被告人は、同看護婦をして出血や破水の有無等の切迫流産の徴候について確認させたが、それらの徴候はうかがわれなかつたうえ、前記認定のとおり、被告人は前記手術の際予め流産防止の処置を施していたし、妊娠五ケ月は既に胎盤固定が完了している時期でもあつたので、流産の心配はなく、あわてて往診に出かけるまでもないものと判断し、結局自らは右電話に出ず、右看護婦をして外来患者の診療がすんでから往診する旨を答えさせたことがそれぞれ認められる。

さらに前掲各証拠および証人木戸雅子の当公判廷における供述(以下木戸証言という。)ならびに当裁判所の検証調書を総合すれば、被告人は、前同月二二日代々木病院外科診療室において他二名の医師とともに約一三〇名前後の外来患者の診療にあたり、さらに入院中の約四〇名の患者のために病棟回診を行ない、午後四時ころ同日の診療業務を終えたこと、引き続き同日午後四時ころ、前記認定の往診依頼に基づき、聴診器、注射器および強心剤等を携え前記北原方へ往診に赴こうとしたが、その際たまたま非番であつた外科の看護婦斉藤雅子(現姓木戸)および野間園子(現姓青柳)と同病院の廊下で出会つたことから、この機会に往診への随行を兼ね、同病院での経験の浅い右両名に対し、民医連の地域活動に備えて被告人の手がけた患者宅を教えておくなどしようと考え、右両名を自己に同行させることにし、ともに同病院を出たこと、その後被告人らは後記認定の経路を経て北原いち子方を目指したが、同女の実家は東京都渋谷区神宮前三丁目二四番所在の鮮魚店「魚丹」こと高橋一二三方(以下単に魚丹という。)で、同女も昭和三三年に結婚して同区神宮前二丁目三二番に移るまでは同店に同居していたものであり、かつ右両家は徒歩二分位の至近距離にあるうえ、それまで右実家の家族や同女の夫もしばしば代々木病院の診療を受けていたことなどから、被告人は同女がかねて熟知していた魚丹にいるものと誤信し同店に赴いたこと、ところが同女は既に同店には同居していなかつたので、同店で前記住居を聞いたうえ同女方を訪れ、玄関土間で同女夫婦に面接したが、同女から腹痛は下剤服用によるもので既に痛みはおさまつた旨説明を受けたため、被告人としてはもはや診察の必要がなくなり、同女に対して下剤の濫用を警告するにとどめ、数分間で同家を辞したことがそれぞれ認められる。

被告人の北原いち子への往診に関連する諸事実につき当裁判所の認定したところは以上のとおりであるが、なお検察官は、北原いち子関係カルテ中の本件往診依頼に関する記載部分は後に挿入された疑いもあると主張し、また梅沢証言によれば、同人は本件当日被告人ら三名につき前記魚丹の前後を通じ尾行を続けたが、北原いち子方へ立ち寄つた事実は現認しなかつた旨供述しているので、さらに付言するに、まず北原いち子関係カルテ中当日の往診依頼に関する記載部分は、いずれも各診療の都度記載されたものと認められる同月二一日と同月二八日の各記載部分の間にあり、その記載の仕方、記載内容、記載位置等を仔細に検討しても、後に挿入された形跡は窺われないばかりか、往診の内容が前記認定のとおりにすぎないことに照らせば、右カルテに往診結果の記載が存しない点も理解できるところであり(往診結果の記載がないことは逆にこの部分が後の挿入にかかるものでないことの一証左とみることもできる。)、北原いち子方への往診の事実に関する北原証言、木戸証言および被告人供述もその相互の関係および右北原いち子関係カルテとの関係でよく符合しているのみならず、その各供述内容は具体的で特に不合理な点は窺われず信用しうるものと認められるところ、前記証人梅沢福雄の供述は、以上の各証拠に対比し、さらに被告人の訪問経路に関する項で後述するように、全体としてあいまいで前後矛盾しあるいは不合理な点もみうけられることをも合わせ考えれば、たやすく措信することはできない。

(二) 被告人の訪問順序および経路について

北原いち子方往診の事実につき以上に認定したところと、木戸証言、梅沢証言、第二八回公判調書中の証人三井辰造の(以下三井証言という。)、第二九回公判調書中の証人鈴木波子の(以下鈴木証言という。)、第三二、三四回公判調書中の証人但木和子の(以下但木和子証言という。)各供述部分、第三〇、三二回公判調書中の証人宮沢照代の供述部分および同証人の当公判廷における供述(以下これらを宮沢証言という。)、三井辰造(以下三井調書という。)、鈴木波子(以下鈴木調書という。)、宮沢照代(以下宮沢調書という。)、但木和子(以下但木和子調書という。)の検察官に対する各供述調書、当裁判所の検証調書、被告人供述を総合すれば、被告人は、本件当日の昭和四〇年六月二二日午後四時ころ代々木病院を出発してから同六時ころ同病院に帰着するまでの間、前記認定の北原いち子方および魚丹のほか、東京都渋谷区千駄ケ谷四丁目一五番所在の堀部鉱業所、同区千駄ケ谷二丁目三四番所在の江原靴店こと江原さよ方、ならびに公訴事実記載の同所同番各所在の三井辰造方、宮沢照代方(深谷定吉方と同一であり、以下宮沢照代方という。)、但木美代方、同所二八番所在の鈴木波子方(鈴木巴方と同一であり、以下鈴木波子方という。)をそれぞれ訪問し、なお同区神宮前二丁目一九番所在青果店中村某方前路上を言葉をかけて通つたことが認められる。

ところで、梅沢証言と木戸証言および被告人供述との間には、前記のとおり北原いち子方への訪問の有無につき食い違いがあるほか、右各被訪問先に対する訪問の順序および経路についてもかなり食い違いが認められるので、以下この点を検討する。

まず梅沢証言を仔細に検討すれば、同証言について次のような事実が認められる。すなわち

(1) 第四三回公判における主尋問に対する同証言には、梅沢福雄は、被告人が同日午後四時一五分ころ三井辰造方を訪問し、ついで同四時二〇分ころ江原さよ方を訪問した後、宮沢照代方のある路地の方へ左折して下つていくのを目撃し、その後暫時警視庁原宿警察署から急行してきた石堂宰係長らとの打ち合わせ等のため被告人の行方を見失つたが、同四時四〇分ころ同区千駄ケ谷二丁目一一番所在千代田グラビア前付近路上において、被告人が同所二八番三号所在の家(同所二八番、一一番の南側に沿つて東西に走る通称オリンピック道路に面することになる。)に入るのを発見し、その家は鈴木波子方であることが判つたとの部分が存するところ、同公判における反対尋問に対する同証言には、梅沢福雄は、被告人が前記宮沢照代方へ通ずる路地を同所三五番瑞円寺方向に戻り、同所二九番の南側に沿う通りを経て前記鈴木波子方に向つたことも目撃している旨の部分があり、さらに第四五回公判では再びこの証言を取り消し、また同公判における同証言は、被告人の三井辰造方訪問の時間について、弁護人に指摘されるまで、第四三回公判におけると異り、午後三時五〇分ころであると述べ、さらに鈴木波子方についても前記オリンピック道路と垂直に交り鳩森八幡神社に通ずる道路に面した同所二八番五号であつたとし、第四三回公判における証言を訂正している等、同証言には前後矛盾しあいまいな点が認められる。

(2) 第四三回公判における同証言は、被告人が鈴木波子方訪問後、同所一〇番、八番、七番、三番から同所四番の渋谷区立千駄ケ谷小学校の各南側を通ずる道路を経て、右小学校南西端の十字路を左折して南進し、さらに同区神宮前二丁目三二番南西端の日本社会事業大学に面する三差路を東に左折し、ついで同区神宮前三丁目二五番と二七番の間を通ずる通りに入つていつたものであるとするが、第四五回公判における同証言は、以上と異り、被告人が同区千駄ケ谷二丁目一〇番の西側を通ずる通りを経て、同所八番、七番、二番、一番の各北側を通ずる通りを西進し、同所一番の北西端の十字路を南に左折し、前記千駄ケ谷小学校の西側を通り、同校南西端の前記十字路を南下して日本社会事業大学に面する前記三差路に至つたものであるとし、両者間にかなり顕著な違いが存在する。

(3) 梅沢証言は、同区神宮前三丁目二五番と二七番の間を通ずる通りに入り同所二四番の魚丹に至つてからの被告人の経路について、同所二三番東側の通りを南進したうえ、同所二二番の周囲の路地を一周した後、再び同所二三番東側の通りを逆戻りして魚丹前に至り(当裁判所の検証調書によれば、この間の所要時間は約五分であることが認められる。)、さらに北進して日本社会事業大学に面する前記三差路付近に至るものであつたというのであるが、同証言によつてもこの間被告人が何処かを訪問した等の特別な状況も窺われないところ、被告人が漫然と右のような経路をたどつたとするのは不自然で納得し難い。

(4) 同証言によれば、被告人は、その後右三差路付近より同区神宮前二丁目三二番、三一番の東側の通りを直進し、同所二三番の東端の三差路に至つたものであり、梅沢福雄は被告人が同所三二番の北原いち子方に入るのを目撃しなかつたというのであるが、他面同証言によれば、そのころ同人は被告人らの後方約一五メートルの位置で尾行を続けていたことになるところ、当裁判所の検証調書および北原証言によれば、北原いち子方は魚丹から向う通りのほぼ延長線上にあつて幅広い大通りに面し、何ら見通しを妨げるものは存在しなかつたことが明らかであり、さらにさきに認定したとおり、そのころ被告人は同行の看護婦両名と右北原方を往診のために訪問し、同人方玄関土間に数分間立ち寄つていたものと認められるのであるから、梅沢証言中右の部分は到底信用することができない。

さらに石堂証言によれば、石堂宰は、同日午後四時四〇分ころ、被告人らが同区千駄ケ谷二丁目二八番南西端の三差路から同番の西側を北進して鈴木波子方に入つたのを目撃したというのであり、被告人の鈴木波子方訪問の時間および経路に関する梅沢証言の前記(1)に添う供述部分があるが、石堂証言によれば、同人は同所三六番北西端の鳩森八幡神社寄り十字路上にあつて、ロイド眼鏡をして鈴木方の表札を見ている者の姿を目撃し、これによつてその訪問者が被告人であることを識別できたというものであるところ、当裁判所の検証調書によれば、右目撃地点から鈴木方までは約207.5メートルあり、その見通し状況は同女方玄関前に立つているものが人であると判別できる程度にすぎず、石堂証言の如く人の同一性までを特定することは至難であることが明らかであるから、右証言はにわかに措信し難く、その他本件当日の被告人らの訪問順序および経路に関するかぎり、梅沢証言に添う証拠は見当らず、結局右の点についての梅沢証言はこれを全面的には信用できないものといわなければならない。

これに反して、被告人供述および木戸証言は、いずれも本件当日における被告人らの訪問順序および経路につき、代々木病院を出てまず同区千駄ケ谷四丁目一五番の前記堀部鉱業所に立ち寄つた後、同二丁目三四番の三井辰造方、江原さよ方、宮沢照代方、但木美代方を順次訪れ、ついで同所三一番と三四番、三二番の間を通ずる通りを経て同区神宮前二丁目一三番東側を通る大通りに出て南進し、同所一三番南東端の十字路を右折し、さらに同所二〇番北端の三差路を左折して直進し、日本社会事業大学に面する前記三差路付近に出て同区神宮前三丁目二五番と二七番の間を通ずる通りに入り、同所二四番の魚丹を訪れ、同じ道を逆戻りして同区神宮前二丁目三二番の北原いち子方を訪れたうえ、さらに往路を引き返して同所一九番の中村方前を経て同所二〇番北端の三差路に出、これを左折して北進し前記オリンピック道路を横断し、同区千駄ケ谷二丁目二八番の鈴木波子方を訪れ、再びオリンピック道路に戻つてこれを東進し、同所二四番東端の十字路を左折して同所三一番と三二番、三四番の間を通ずる通りを経て、前記但木美代方を再度訪問し、同所三四番と三一番、三三番の間を通ずる通りを経て、その後代々木病院に帰つたとするのであるが、被告人供述および木戸証言は内容においてよく一致しているばかりか、その各供述内容は、さきに北原いち子方への往診の事実について述べたところおよび北原いち子方、魚丹以外の各訪問先に対する立り寄りの経緯について後述するところ、ならびに全体として異常なまわり道や近道をとることなく概ね自然な順路を経ていること等に照らして、証明力を疑うべき特段の事情も認められず、結局本件当日における被告人らの訪問順序および経路は、以上の被告人供述、木戸証言のとおりと認めるのが相当である。

(三) 各被訪問者宅における被告人の言動

(1) 堀部鉱業所について

当裁判所の検証調書によれば、堀部鉱業所は代々木病院の裏手徒歩約四分の至近距離に存在し、被告人供述によれば、右堀部は代々木病院の後援会員で、被告人は同人方に往診したことや家族の手術を執刀したこともあり、かねて同人方とは親しくしていたものであるところ、本件当日も同病院からの伝言を伝えるため同人方に立ち寄つたにすぎないものであることが認められるが、それ以上に同所において本件選挙に関する話が出たことを認めるに足りる証拠は存しない。

(2) 三井辰造方について

三井証言、木戸証言、佐藤証言、三井調書、当裁判所の検証調書、代々木病院の(マ)一三四外科診療録写(弁84)、同(マ)一四二内科診療録写(弁85)、被告人供述を総合すれば、三井辰造は、昭和二七年九月一日より同年一〇月一六日までの間、胃潰瘍により代々木病院に入院して、被告人の執刀で手術を受け被告人と知り合うようになり、またそのころ同病院が共産党の関係であつて患者に親切な病院であるとの認識を持ち、ついでその直後ころ火傷で同病院に数日間通院加療を受け、さらに同三九年七月一日高血圧症により同病院からの往診治療を受けたこと、同人の妻三井とき子は、同年五月一五日から同年七月二四日までの間、脊椎過敏症、胃・十二指腸周囲炎、萎縮性胃炎、急性胃腸炎により、前後一七回にわたつて同病院に通院加療を受けたこと、右三井辰造の胃潰瘍の手術は、被告人が同病院に着任した年の診療所が代々木病院と改称された直後ころに、被告人として最初に行なつた大手術で、病院を挙げて治療にあたつたものであることから、同人は被告人をはじめ同病院関係者の間では特に思い出の深い患者であつたこと、同三四年ころ同病院の腹部外科手術を受けた患者等の間で自らの健康を守る趣旨のもとに腹友会という組織が結成されたが、同病院は、前記認定の民医連の趣旨、目的にのつとつた医療活動の一環としてこの種患者組織の育成については積極的に支援指導を進めており、右腹友会についてもその活動を支援していたもであること、同三九年ころ三井辰造宛てに腹友会入会勧誘のパンフレットが送られてきたことがあり、またそのころ被告人も右勧誘のため同人方を訪れたが同人は留守中でその目的を果さなかつたこと、本件当日被告人は堀部鉱業所を出て北原いち子方へ向う途中、後記認定のとおり入院のことを告げに江原さよ方に立ち寄るべく同女方をめざしたが、その途すがら同行の前記両看護婦に対し三井辰造は思い出の深い患者である等と話し、午後四時すぎころ、江原方の三、四軒手前にある三井方を訪れ、玄関先で応対に出た同人に対し、まずその健康状態を聞きさきのパンフレットを読んだかどうかを確めたうえ、腹友会への入会を勧誘したところ、同人は「考えておきます。そのうちに。」と答え、被告人は四、四分間で同人方を辞したものであること、この間同行の前記両看護婦は同人方付近路上にあつて佇立していたにすぎなかつたことがそれぞれ認められる。

ところで、三井調書には、被告人が三井方を退出する際、「選挙もだいぶ近くなりましたね。今度の選挙には是非共産党をお願いします。」と言つたとの記載があるが、同調書によれば、三井辰造は昭和二七年に火傷の治療を受けた後には同病院で治療を受けたことはなく、家族も同病院にかかつたことはないとあつて、この点は右認定の事実に反し、また同調書中冒頭の供述者の年齢欄(戸別訪問罪において被訪問者の生年月日の確認はその者の同一性や選挙権の有無を確定するために重要である。)には明治四〇年一〇月一七日生とあり、真実の生年月日である明治三七年一〇月二八日と大きく食い違つており、この点は、同人の司法警察員に対する供述調書の記載をうのみにした疑いもあり、また三井証言によれば、三井辰造は検察官に事情聴取された後調書の読み聞けを受け、その際異議申立等はしなかつたというものの、証言当時における右取調についての印象は、取調時間は短かく、供述調書の内容も同人が本件当日警察官に述べたところとあまり変わらなかつたというものであつて、これらの事情を総合すれば、相沢証言の内容を考慮に入れても、果して検察官が、同人の司法警察員に対する供述調書の内容を十分に吟味したうえで、同人から慎重に事実関係を聴取し調書を録取したものということができるか些か疑問なきを得ない。他面三井証言は、三井調書の内容を全く否定し、記憶喚起のため同調書の内容を示してした誘導尋問に対しても、そのようなことを述べた覚えはないと答えているが、その証言内容には検察官の取調前に既に調書はでき上つていたとする等不自然な点も見うけられ、さらに証言当時同証人が六五歳の老齢で事件後既に四年八ケ月を経過していたものであり、しかも事柄は日常生活中のありふれた一こまに関するものであることを合わせ考えれば、同証人は証言当時実質的には本件についての具体的な記憶を失つており、その証言は本件当日の被告人の言動やその後の捜査官からの取り調べ状況等に対する証言時点における漠然とした印象、感想の域を多く出ていないものと認めるのが相当である。結局、三井調書中前示被告人の三井方退出時の発言に関連する記載部分の証明力について、弁護人が三井証言を通じて弾劾することは、実質的には至難な状況にあつたものといわざるを得ず、このような場合その証明力の存否程度については特に慎重な判断が要請されるものというべきである。

以上の観点から、同調書中の右部分の記載内容を、後に認定する宮沢照代方、鈴木波子方等他の被訪問者宅における被告人の言動とも対比しつつ、本項冒頭に認定した諸事実、石堂、梅沢各証言中、石堂宰、梅沢福雄両警察官が被告人の訪問直後に三井辰造方へ聞き込みに赴いた際の経緯に関する部分、被告人供述中同人方での言動に関する部分等に照らして検討してみると、被告人が、被告人および代々木病院を熟知し前記の如き認識をもつている同人に対して、ことさら共産党を明示したかどうかなお疑いの余地はあるが、同人に被告人の訪問直後に石堂、梅沢両警察官の事情聴取に応じて投票依頼があつた旨をいちはやく申し述べ、ついでその後間もなく検察官の取調べにも応じ異議申立もなく供述録取を終えているのであり、被告人において同人をして投票依頼と感じさせる言葉を述べていないならば同人の右態度は理解できないものというほかなく、右認定の被告人と同人との会話の状況に照らしても、同人が被告人から選挙とは関係なしに述べられた言葉を投票依頼と誤信したとすべき特段の事情も認められず、前認定の当時参議院議員選挙の投票日が間近に迫つており、かつ被告人が野坂候補の立候補を知りこれを支持していたことを総合すれば、結局被告人は同人方を退出する際、本件選挙に関し自己の支持する前記野坂候補の当選を期する意図のもとに、同人に対し「よろしくお願いします。」という程度の言葉を述べたものと認めることができる。

(3) 江原さよ方について

木戸証言、当裁判所の検証調書、代々木病院の(ア)九三八外科診療録写(弁167)、被告人供述を総合すれば、江原さよは当時満六七才で、昭和四〇年六月一一日代々木病院の外来患者として腹壁術後ヘルニア、入院手術の要ありとの診断を受けたが、ベッドが空いていなかつたので一旦帰宅して自宅待機の後、同月二三日に同病院に入院し、そのころ被告人の執刀により手術を受け、その後術中ショック、老人性肺炎、胃切除後貧血などの併発もあつて、同年七月二七日まで入院加療を受けたこと、本件当日には同病院のベッドが空き同女の入院が翌二三日に予定されたため、被告人は同女の手術を執刀する医師として、病院を出る際から、往診の途中にあたる同女方に立ち寄り同女ないしその家族と接触し右入院のことを告げその不安を和らげておこうと考えており、三井方を出た後予定どおりその三、四軒先の江原方を訪れ、玄関先で同家の主人にベッドが空いたから明日病院に入るようと話し入院する旨の確認をとり、一、二分で同人方を出たことが認められるが、それ以上に同人方において本件選挙に関する話が出たことを認めるに足りる証拠は存しない。

(4) 宮沢照代方について

宮沢証言、木戸証言、宮沢調書、当裁判所の検証調書、昭和四五年四月二五日施行の裁判所の検証調書、代々木病院の(マ)三四九外科診療録写(弁87)、被告人供述を総合すれば、宮沢照代は昭和三九年五月二五日虫垂炎により代々木病院に入院して手術を受け、同年六月一日退院し、その間被告人からも治療を受けたが、右手術は比較的難手術であつたこと、同女は同三七年六月ころから前記住居の父深谷定吉夫妻と同居するようになつたのであるが、同女の母も被告人の患者であつたことがあること、被告人は江原方を出た後、同行した前記両看護婦に「深谷のおばあちやんのところへ寄つてみよう。」と述べて江原方より約四五メートルの距離にある宮沢方を訪れたこと、宮沢方では、被告人は裏出入口の戸を開けて同入口内の土間に通ずる廊下まで応対に出た宮沢照代と相対して、同女と数分間会話を交したこと、この間同行の前記両看護婦は同女方付近路上にあつて佇立していたにすぎなかつたことがそれぞれ認められる。

ところで被告人の宮沢方における言動について、宮沢調書によれば、「中田先生に私が『何か御用ですか』と聞いたら、先生は『実は今度の選挙について野坂さんと春日さんにお願いします。お宅には選挙権のある人は何人いますか』と言われました。」「私は『五人居ます』というと、先生は洋服の内ポケットから藁半紙の折りたたんだ物を出して『選挙権のある人の名前を教えて下さい』と言いました。私は両親、妹一人と私ら夫婦の五人の名前を申しますと、先生はその紙にその名前を万年筆で書き入れました。その紙には私方の名前だけでなくその前に他の人の名前が書いてありました。先生は名前を書き終えると『ありがとうございました。それではよろしくお願いします』と言つて……帰つて行かれました。」というのであり、宮沢証言によれば、被告人は、まず応対に出た宮沢照代に対して「いかがですか。」とその健康状況を問い、さらに同女の子供や家族の健康状況について問答を交した後、帰り際に「よろしくお願いします。」と述べたというのであつて、両者の間に大きな食い違いが認められる。

そこでまず宮沢調書について検討するに、代々木病院ないし被告人と宮沢方との間にはかねて右に認定したような関係があり、被告人が右訪問の機会にわざわざこと改めて同女に対し家族中の有権者の氏名を聞きだたしたうえメモまでしたというのはいかにも不自然であるところ、三井調書、鈴木調書、但木和子調書によつても、被告人が同日の他の右各被訪問者方で右のような言動に出た事実は全く窺えないのであるから、特に宮沢方にかぎつてそのような行動に出る必然性はないものというべきであり、また右事実に照らせば、被告人が出した紙片には既に他人の名前が記載されていたという点も疑問である。さらに石堂証言、梅沢証言、第三六回公判調書中の証人水村忠の供述部分によれば、被告人の宮沢方訪問については、当日本件捜査のため出動していた警察官のいずれもがその事実を現認しておらず、その後の聞き込みの結果初めて捜査官に判明したものと推認できるところ、宮沢調書、宮沢証言によれば、右は本件翌日の警察官和田某の同女方における聞き込みによるもので、その場で同女の右和田に対する供述調書が作成されたものであり、かつ同女と右和田とは会えば話をするような知り合いの間柄であつたことが認められ、このような場合の供述者の心理としては、往々にして誘導を受け易いものであるところ、右調書の録取過程について右和田の証言はなく、宮沢証言によつても必ずしも明らかではないから、以上の過程を経てその後右調書をふまえ検察官において作成された宮沢調書の前記引用部分についても、以上に指摘した諸点と合わせ考えれば、相沢証言を考慮に入れても、にわかに措信しがたいものと判断せざるを得ない。他面宮沢証言は、前後一貫していて無理がないばかりか、その証言態度も必ずしも被告人に好意的なものとは認められず、むしろ記憶に従つて誠実に証言しているものと認められるので、十分措信することができる。結局宮沢方における被告人の言動は、右の宮沢証言の内容として掲げた限度においてこれを認めうるものというべきであり、さらに右証言によれば、宮沢照代は被告人の右言動から投票依頼であるとの印象を受けたものであることが認められるところ、前記認定の被告人と同女との会話の状況に照らしても、同女が被告人から選挙とは関係なしに述べられた「よろしくお願いします。」との言葉を投票依頼と誤信したとすべき特段の事情も認められず、前認定の当時参議院議員選挙の投票日が間近に迫つていたこと、および被告人が野坂候補の立候補を知りこれを支持していたことを総合すれば、結局被告人は同女方を退出する際、本件選挙に関し自己の支持する前記野坂候補の当選を期する意図のもとに、同女に対し「よろしくお願いします。」という程度の言葉を述べたものと認めることができる。

(5) 但木美代方(一回目)について

木戸証言、当裁判所の検証調書、被告人供述を総合すれば、被告人は前記江原方を出た直後、同行した前記両看護婦に「この近くには但木さんのお宅があり奥さんが心配をしていたが、ちよつと来ていないので寄つてみたい。」と話しており、宮沢照代方を出てから同女方のすぐ裏手にある但木美代方を訪れたこと、被告人は但木方玄関前で、「お母さんおりますか。」と声をかけたところ、男の子の声で「お母さんいないよ。」と返事があつたので、「あとでまた来ます。」と言つてただちに同人方を辞したことがそれぞれ認められ、その際それ以上に本件選挙に関する話が出たことを認めるに足りる証拠は存しない。

(6) 魚丹および北原いち子方について

被告人が魚丹および北原いち子方を訪問した経緯、目的ならびにそこでの被告人の言動については前記のとおりであり、右各訪問先において本件選挙に関する話が出たことを認めるに足りる証拠は存しない。

(7) 中村方について

木戸証言、被告人供述を総合すれば、当時青果店を経営していた中村方の主婦がそのころ疽により代々木病院外科の外来に通つていたこと、被告人が北原いち子方を出て中村方前を通りかかつたところ、中村方の主婦が被告人に気付いてあいさつをしたので、被告人は中村方店先で「指どうですか。」等と会話をして一、二分で別れたことがそれぞれ認められ、その際それ以上に本件選挙に関する話が出たことを認めるに足りる証拠は存しない。

(8) 鈴木波子方について

鈴木証言、木戸証言、鈴木調書、被告人供述を総合すれば、鈴木波子は、昭和三五年ころ両膝のリウマチにより代々木病院において約三ケ月間にわたつて被告人から治療を受けていること、一般に例年六月ころはリウマチの痛みが出やすい時期であること、それ以前にも同女の長男が虫垂炎により同病院に入院して手術を受け、また同三八年夏ころ同女の夫が高血圧症により同病院で治療を受け、その際同女が夫に代つて薬をもらいに行つたことがあること、被告人は、本件当日午後五時ころ、「この辺にリウマチの患者さんで鈴木さんのうちがある。ついでだから寄つてみよう。」と同行の前記両看護婦に言いながら同女方を訪れ、玄関先で応待に出た同女とリウマチに関するやりとりをし、同女方には約三分間いたこと、この間同行の前記同行の前記両看護婦は同女方付近路上にあつて佇立していたにすぎなかつたことがそれぞれ認められる。

ところで被告人が同女方を退出する際のやりとりについて、鈴木調書によれば、被告人は、「どうかよろしくお願いします。」と述べたというのであり、鈴木証言によれば、「先生がお帰りになる時にね。私が『先生よろしく』と言つて……。」「先生はそれで黙つてお帰りになりました。」というのである。

そこでまず鈴木証言について検討するに、同証言によれば、被告人は終始黙つており、同女において一方的にリウマチの話をし、最後に同女の方から被告人に対して、「よろしくお願いします。」と述べたということになるが、右認定のとおり同女がリウマチで被告人の治療を受けたのはかなり以前のことでもあり、被告人が同女方を訪れるにさきだち同行の両看護婦にした右認定の説明と照らせば、むしろ被告人においてまずリウマチの話を切り出したとみるのが自然であり、仮に同女において、リウマチの話を切り出したとしても被告人がこれに応答しないというのはいかにも不自然であつて、自ら同女方を訪れた被告人が終始沈黙していたかの如き右証言はにわかに措信しがたい。ついで鈴木調書について検討するに、同調書において同女は代々木病院ないし被告人と同女の関係につきかなり詳しい供述をしており、この点に関しては鈴木証言との間に何ら矛盾は認められないばかりか、供述内容全体にわたつて自然で無理がなく、さらに同女方を退出する際の被告人の言葉に関して、「この時にはただよろしくお願いしますと言われただけで選挙とか野坂とかいう言葉は全然申されませんでした。」「それから選挙人の名前を聞くとか署名をするとかいうこともされません。」としており、検察官が特に念を押し具体的に誘導的な尋問をしたと推認される右の部分についても、記憶に基づいて正確に供述しているものであることが認められるほか、右に引いた被告人の言葉については、既に認定した宮沢照代方における被告人の言葉ともよく符合していることを合わせ考えれば、その供述内容は十分信用しうるものと認められる。したがつて鈴木波子方における被告人の言動は鈴木調書の内容として右に掲げたようなものであつたと認めるのが相当であり、鈴木調書によれば、同女は被告人の右言動から投票依頼であるとの印象を受けたものであることが認められるところ、右認定の被告人と同女との会話の状況に照らしても、同女が被告人から選挙とは関係なしに述べられた「よろしくお願いします。」との言葉を投票依頼と誤信したとすべき特段の事情も認められず、前認定の参議院議員選挙の投票日が間近に迫つていたこと、および被告人が野坂候補の立候補を知りこれを支持していたことを総合すれば、結局被告人は同女方を退出するにあたつても、本件選挙に関し自己の支持する野坂候補の当選を期する意図のもとに、同女に対し「よろしくお願いします。」と述べたと認めるのが相当である。

(9) 但木美代方(二回目)について

但木和子証言、第三五、三六回公判調書中の証人但木美代の供述部分(以下但木美代証言という。)、木戸証言、但木和子調書、但木美代の検察官に対する供述調書(以下但木美代調書という。)、代々木病院の(タ)三七八内科診療録写(弁89)、同(タ)二七八外科診療録写(弁90)、被告人供述を総合すれば、昭和三九年一、二月ころ、但木美代の娘二名がいずれも虫垂炎により相次いで代々木病院に入院し、被告人の執刀により手術を受けたことがあり、また同女方では病人が出ると同病院で診療を受けるのを常としていたこと、同女は同四〇年五月七日同病院内科を訪れて胸痛を訴えたところ、担当医師は肋間神経痛、乳癌ノイローゼとの診断を下し、カルテに「次回外科受診、乳癌ノイローゼ?ですがよろしくお願い致します。」との記載をし、さらに同女は同年五月二九日、六月一日、同月四日、同月八日の四回にわたつて同病院の外科外来で被告人の診療を受けたが、被告人は右カルテの記載を了知しつつ右同様の診断を下し、それぞれ注射や投薬の処置をし、そのころ右カルテに「外科で投薬しました。」との記載をしたこと、同女は右のとおり短期間に頻繁に来院したが、同月八日注射、投薬の処置を受けたのを最後にその後は全く来院がとだえてしまつていたため、既に手持の薬も尽きているころでもあり、被告人は乳癌ノイローゼの中断患者として同女のその後の経過を案じ、同女に直接面接して病状を尋ねるなり通院を勧めるなりしようと考えていたことから、鈴木波子方を訪問した後再び但木美代方を訪れ、「お母さんいますか。」と声をかけたところ、同女の娘である但木和子が応対に出て留守である旨答えたので、同女と数分間話をして同女方を退出したが、その際前記両看護婦は被告人に随行せずさきに代々木病院に向かつたものであることがそれぞれ認められる。

ところでこの間の同女方における被告人の話の内容については、但木和子調書によれば、「男の人が私に『代々木病院の者ですが、今度の選挙のことでお願いに上りました。お母さんによろしくお願いします。』と言いました。そばに居た弟が『代々木病院は共産党でせう』と言つたら、その男の人は『そうです』と言つていました。」というのであり、但木和子証言によれば、「留守だ。」と言つたら、「代々木病院の者です。」と断つて薬がどうとかこうとか言つたうえで、「お母さんによろしく」と述べたというのであつて、両者の間に大きな食い違いが存する。

そこで但木和子調書について検討するに、右認定の代々木病院あるいは被告人と但木美代方との関係、先に(5)で認定した被告人が最初に同女方を訪れるにあたり同行の両看護婦に説明した内容、本件当日被告人は担当医師として乳癌ノイローゼの中断患者である同女を案じわざわざ二度にわたつて同女方を訪れていること、ならびに同女方以外の各被訪問者宅における被告人の言動について先に認定したことろを総合すれば、右但木和子調書のうち、被告人が但木和子に対していきなり「今度の選挙のことでお願いに上りました。」と述べ、専ら選挙の話のみをして立ち去つたとする記載部分はにわかに措信しがたく、右記載に先立つ被告人が「代々木病院の者ですが」と断つたとの点についても、むしろ但木美代との関係で自己の医師としての地位を明らかにする意味で述べたものと認めるのが自然であり、さらに同調書中但木和子の弟が「代々木病院は共産党でせう」と言つたところ、被告人が「そうです。」と言つたとのやりとりに関する記載部分については、同女の弟は但木美代証言によれば当時未だ社会的経験未熟な一五歳の若年であり、右の年齢を考慮すれば、同人の右発言がどのような具体的状況下でなされたかは、その場の会話の意味内容を知るうえで極めて重要であるというべきところ、右の調書記載以外この点に関する証拠は一切存在しないばかりか、但木和子証言は弟がその場にいて被告人との応対に出たかどうかについてすら極めてあいまいであり、右記載部分の信憑性ないし意味内容については疑問の余地があると認めざるを得ず、なおまた但木和子証言の証言内容を通して看取される同女の誘導を受けて混乱に陥りやすくあいまいな記憶を断定的に供述する傾向のある性格ないし証言態度は、同調書中の供述記載全般にわたつてその証明力を減殺せしめるものというべきである。他方但木和子証言についても、右のような証言態度やあいまいで前後矛盾の多い証言内容に照らせば、同女は本件後既に五年を経た証言の当時、細部にわたる記憶を失つていたものと認めるのが相当であつて、三井辰造方の項で述べたと同一の理由により、但木和子調書の証明力の存否程度については慎重な判断が要請されるところ、但木和子証言自体、ならびに但木美代証言その他の証拠によつても、以上に指摘した同調書記載部分に対する疑問は未だこれを解消するに足りないものというべきである。しかしながら但木和子調書、但木和子証言は一致して、当時但木和子が被告人の訪問に際して選挙目的のものであるとの印象を受けたとしており、さらに同女は被告人が同女方を退出した直後に聞き込みにきた水村忠警察官の事情聴取に応じ、ついで同夜同人と同行してきた池田某警察官により供述調書が作成され、さらにその後間もなく行われた検察官の取調べにおいても格別の異議申立もなく右趣旨を肯定した供述の録取がされていることに照らせば、同女が被告人の訪問に際し右のような印象を受けたとの点は否定できないものというべきところ、但木和子調書中には、前記引用の、被告人が、「お母さんによろしくお願いします。」と述べた旨の部分の他に、「候補者の名前については云いませんでした。又口では投票してくれとか、入れてくれとかいう事も云わなかつたのです。」としたうえ、「ただよろしくお願いしますということを二、三回繰返して云つていました。」との具体的な記載があり、同女において右の言葉は特に印象に残つていたものと認められ、結局同調書については、被告人が自己の地位を明らかにしたうえ、「お母さんによろしくお願いします。」との趣旨を繰返し述べていたこと、同女は被告人の訪問に際し選挙目的のものであるとの印象を受けたこと等の限度において信用することができるものというべきである。ところでさらに但木和子調書、但木和子証言を仔細に検討すれば、本件当時、同女は、前記認定のように母但木美代が乳癌ノイローゼで代々木病院に通い被告人の診療を受けていたことを知らず(癌のような死亡率の極めて高い疾病については、これに罹患したのではないかとの不安を抱いていても子供に秘しておくのが親心であろう。)、そのため同女と被告人との会話が全体としてぎこちなく必ずしも要領を得ないものであつたことが推認され、一方前記認定のとおり、被告人は、自己が医師として担当する乳癌ノイローゼの中断患者である但木美代の経過を案じて同女自身に面接すべく、再度にわたつて同女方を訪問したものであり、本項冒頭に認定した各事実や、但木和子調書、木戸証言、被告人供述によれば、被告人は但木和子に対して代々木病院の者であることを明らかにしたうえで、「薬がないんじやないか。」「とりに来るように。」「心配しているか。」等と述べていることが窺われ、以上の点を総合すれば、むしろ被告人は選挙とは関係なく、母親の病気に気付いていないため要領を得ない応対をしている当時未だ一八歳の同女に対して、母への医師としての伝言を忘れずに伝えてもらうよう、何度も念を押して「お母さんによろしくお願いします。」と述べたものと認めうる合理的な余地があり(なお但木和子、同美代の各証言および各調書を通じてみても、但木和子が被告人の来訪当夜母美代に対して被告人から薬の話等があつた旨を伝えた形跡は窺われないが、当時和子が美代の病気を知らず要領を得なかつたことや、美代の帰宅時には既に警察官が聞き込みに来ていて、和子においては投票依頼との先入観が先立つていたとも推認されることを考え合わせれば、あながち不合理ということはできない。)、結局被告人が本件選挙に関し野坂候補に投票を得させる目的で右の言葉を述べたと認めるについては、なお証明不十分というほかはない。

2  戸別訪問罪の成否

以上認定したところによれば、被告人は、公訴事実記載の日に、同記載の三井辰造方、宮沢照代方(深谷定吉方)、鈴木波子方(鈴木巴方)、但木美代方を各訪問し、それぞれ三井辰造、宮沢照代、鈴木波子、但木和子に面接したものであり、そのうち三井辰造、宮沢照代、鈴木波子に対しては、いずれもその際前記野坂候補の当選を期する意図のもとに、「よろしくお願いします。」との趣旨の文言を申し向けて同候補への投票を依頼したものと認められるが、但木和子に対して投票を依頼したとの点についてはこれを認めることができず、但木美代方に対する戸別訪問の公訴事実についてはその証明不十分というべきである。

そこでさらに、三井辰造方、宮沢照代方、鈴木波子方に対する被告人の右各訪問が、公職選挙法一三八条一項にいう選挙に関し投票を得しめる目的をもつて戸別に連続してなされたものということができるかについて検討するに、既に認定したところを総合すれば、

(一) 被告人が本件当日代々木病院から外出するに至つたのは、北原いち子からの往診依頼の要請に基づくもので、同女方に対する往診がその主要な目的であり、三井、宮沢、鈴木方への訪問は、右往診の往復の機会にその順路にあたる右各家についでに立ち寄つたというにすぎず、当初から順次投票を依頼しようとの目的をもつて計画的に訪問したものではないこと、

(二) 被告人は、右往診の往復の途中、右の三戸をも含めて、往路に堀部鉱業所、三井方、江原さよ方、宮沢方、但木美代方(一回目)、魚丹を順次訪問し、ついで北原方往診を終えた後の復路に中村青果店に立ち寄り、鈴木方、但木美代方(二回目)を順次訪問しているものであるところ、前記認定のとおり、堀部鉱所業、江原方、但木方についてはそれぞれの所用をもち、魚丹については往診先の北原方と誤り、また中村方では店頭路上で社交的なあいさつを交したにすぎないもので、そのいずれにおいても投票依頼の目的や投票依頼行為の存在したことを認めるに足りる証拠はなく、従つて投票依頼行為を伴う三井、宮沢、鈴木方への各訪問の間には、これを伴わない他の訪問先がそれぞれ介在しており、右三戸の訪問ないし投票依頼行為が連続してなされたものでないことは明らかであること、

(三) 被告人は、民医連に所属する代々木病院の副院長兼外科医長として、かねて自己の手がけた患者等地域住民との接触につとめていたものであるが、三井方、宮沢方、鈴木方はいずれも従来自己または同病院の患家先にあたつて親密な関係にあつたところから、本件当日も前記往診の機会のついでを利用して、三井方では腹友会への入会を勧誘し、宮沢方、鈴木方ではそれぞれの健康状況を尋ねることを目的として短時間立ち寄つたものであり、右各訪問先においてはまず右の点に関する会話が交された後、折から参議院議員選挙の投票日が間近に迫つていた時期でもあり、いずれもたまたま去り際に被告人から「よろしくお願いします。」という程度の簡単な投票依頼文言が述べられたにすぎず、それ以上具体的に政党名、候補者名、政見内容等選挙に関する立ち入つた話がなされた形跡はうかがわれないこと、

(四) 被告人は、斉藤、野間両看護婦を往診への随行をかね、右(三)の趣旨で自己または代々木病院の患家先を教えておこうとして同行したが、三井方、宮沢方、鈴木方を訪問した際には、専ら被告人のみで相手方と面接し、同行の右看護婦両名はいずれも無警戒に戸外に佇立して傍観者の立場に終始し、なんら被告人に協力して投票依頼の挙には出ていないこと

等の諸点を指摘することができ、以上の諸点を彼此勘案すれば、結局被告人が公訴事実記載のように、同行の看護婦両名と共謀のうえ、野坂候補に投票を得しめる目的で、戸別に連続してなす意思をもつて、三井、宮沢、鈴木方をそれぞれ訪問し、投票依頼行為をなしたものと認めるについては、なお合理的な疑の余地が残るものと結論せざるをえない。

第四結論

以上のとおりであつて、結局本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、弁護人のその余の主張につき判断するまでもなく、刑訴法三三六条により、被告人に対し、無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(柳瀬隆次 近藤壽夫 四宮章夫)

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